蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

沈黙(2)


原画
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 この絵は蜂太郎本舗土蔵文庫にあったもので、実際はこのように色褪せております。誰がいつ頃描いたものか、パステルと色鉛筆で書かれているのですが、サインも日付もありませんのではっきりしません。ただ、裏側に「沈黙」「ロンブローゾ」「エジソン」「ニコラ・テスラ」等の単語がなぐり書きされてましたので、そのうちの一つ「沈黙」をタイトルとしています。ほかはみな人名のようです。
 以前に乱穂先生と呼ばれた人物が、この女性をモデルとして描いたことがあることだけははっきりしていましたので、もしかしたらその時の絵がこれなのかもしれません。

「何だ、こんなところにいたのか」
 秋葉君とモデルが休んでいた町外れの小さな喫茶店に、偶然にも乱穂先生が入ってきました。
「私を蔑ろにするとは、秋葉君、次は君が苦労することになるよ」
と、入口近くに仁王立ち、ステッキで秋葉君を指して睨んでいました。
「先生は私を脅すおつもりですか」
「当然だよ、秋葉君。君は私の掌中にある。次は探偵さんに人間椅子にでもなってもらおうか」
 乱穂先生はモデルの横に腰を下ろしながらも秋葉君を睨み続けていました。
「冗談はよしてください、先生。私は疲れています。暫く姿を隠すつもりです」
「姿を隠す…、また例の場所かね」
「例の場所…、ご存知なのですか」
「当然だよ、秋葉君。私も若い頃は良く行ったもんだ。女将がすぐに知らせてくる。『秋葉さんが来ています』とね」
「さすが、乱穂先生。情報源が豊富で、私の行動はすべて筒抜けですか。それより先生、この方が今度アメリカへ行くことになったので、その相談をしていたところです」
「ほう、アメリカ。仕事かね」
「いいえ、仕事ではありません。休暇を取ることにしたのです」
と、モデルが初めて口を開きました。
「先生はこの方をご存知でしたか。有名な歌手の方です。日本での休暇は難しいので私がアメリカを勧めたのです」
「まあ、知らんこともないが、あの喜劇役者がどうしてもあなたを描け描けってうるさいんだよ。ああ、失敬、今日はどうもありがとう。少しお疲れかな」
「ええ、まあ、そんなこともないのですが。秋葉さんが心配してくださって…」
「私も絵を描きながら少しは気になっていたのだが、まあ、秋葉君なら大丈夫…いや、秋葉君、君も一緒かい」
「いやだなあ先生、私は例の場所ですよ」
「おおそうか、そうだった。ところであなたはアメリカには詳しいのですか」
「いいえ、初めてです」
「ワトソン君に頼みます。彼、今ロサンゼルスですから」
「ワトソン、ハーバードで一緒だったというあの男か。信用できるのかい。まあいい、君たちには君たちのやり方がある。そこまで私は詮索しない。それでは、私は退散するか。今日はあなたに会えて嬉しかった。日の下で転寝することもできた。なんとも気持ちのいいものだった。私はまた屋根裏に籠って小説を書くことにする。秋葉君また会おう。あなたもお元気でな、アメリカで寛いでいらっしゃい」
 そう言うと乱穂先生は、入ってきた時とは大違いの軽い足取りで、ステッキを振り回しながら店を出ていきましたとさ。