蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

時代21、こころ、それは先生(1)

 時代17、18、19の続き、RCサクセション森昌子の最終回その1

 阿久悠は「先生」を「せんせい」と書き直して少女っぽい抒情を感じたと言い、そしてこうした童画風色合いの抒情詩は何とも心もとなく頼りないものであったと言う。しかし、その詞に感じられた少女っぽい抒情に、何となく「これはいけるかも知れない」とも思ったと言う。マネージャーの市村に「桟橋で先生を見送る女の子なんて、いますかねえ」と言われ、「まず、いないだろうな」と答えた阿久悠の心に、「せんせい」の情景はどんなふうに浮かんでいたのだろう。
 斉藤茂はこの場面にその情景を重ねる。 

 森昌子はフィナーレのあと、客席に降り、客の一人一人にあいさつをして廻った。やがて遠藤実の席の前に来る。「昌子しあわせにな」と声をかけると彼女は「あ、先生!」と叫んで恩師のふところに飛びこみ泣きじゃくった。それを見て私は『せんせい』というあの歌の情景をみる思いがしたのであった。(「昭和の流行歌100選」)

 情景が浮かばない私は「せんせい」に歌われた場面をと思い、週刊新潮の表紙に谷内六郎の絵を探した。納得できるものはなかったが、少女、港、船の描かれた中ではこれが一番それらしかった。ただ、少女が大人び過ぎている。全体がもう少しほんのりした絵がいいのだが、海が荒過ぎる。多分、詩に書かれた場所は、阿久悠の故郷瀬戸内海だと思うが、この絵は外海に面している港らしい。先生は新たな赴任先に連絡線に乗って向った。その遠のく船と少女の表情にだけそれらしい雰囲気がある。


谷内六郎(雨の波止場1957年)


 しかし、先生とはどこまで突き詰めても硬い言葉で、どうしようもない一線がある。ひらがな表示に至った苦心に納得がいく。ただ、私にはその「童画風色合い」は情景ではなく、イントロの情緒的なメロディによる所が大きい。つまり、視覚よりも聴覚なのである。阿久悠が「せんせい」に感じた想いを作曲者や編曲者に伝えたのかどうか知らないが、編曲者は見事に作詞家の想いと幼い心を音色に変えている。その意味では見事である。


森昌子「せんせい シングル盤」
http://youtu.be/RxvYq6dN7lM
森昌子「15周年口上とそれは『せんせい』」
http://youtu.be/DiHBHNpRYps


 ところで、「心と先生」と言えば夏目漱石の小説に先生の登場する「こころ」があるが、こちらもまたひらがなである。「こころ」は、1914年(大正3年4月28日〜8月11日まで)朝日新聞に連載されたもので、漱石はこの時47歳。その死の2年前のものである。 

 私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚る遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起こすごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にはならない。(「こころ」)

で始まり 

 私は私の過去を善悪ともに人の参考に供するつもりです。しかし妻だけはたった一人の例外だと承知してください。私は妻にはなんにも知らせたくないのです。妻が己の過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだあとでも、妻が生きている以上は、あなたかぎりに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいてください。(「こころ」)

で終わる先生の自殺の話である。この遺書は小説の語り手である「私」宛に書かれたもので、その時の「私」は凡そ25、26歳、先生は40歳前後かと思われる。この小説にはその先生の淋しさから自殺までが書かれている。

 先生の自殺は裏切った友の自殺に対する呵責からだが、先生はそれを明治の精神のためなのだと、延々と書き残す。そしてその行為を決定付けたのが天皇崩御乃木希典の殉死である。その経緯を書き記した遺書にこの先生の倫理観やエゴイズムが見え隠れするのだが、この倫理観に私はふとある人物を思い浮かべた。

 遺書には明治の精神についてはこんな風に書かれている。 

 すると夏の暑い盛りに明治天皇崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まり天皇に終わったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは畢竟時勢遅れだと言う感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白(あから)さまに妻にそういいました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうと調戯(からかい)いました。(「こころ」)

 この先生の自殺について江藤淳の解説を付け加えると… 

 漱石同様明治の教養人・知識人であった「先生」は、自殺を決行するにあたってさえ、弧絶からの逃避という単なる個人的な動機を越えた動機を必要とした。(略)彼は去り行く明治の精神のために死ななければならなかった。(「決定版夏目漱石」)

 さらに先生の遺書は続く。 

 私は殉死と言う言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談(じょうだん)を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向かってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。(「こころ」)

 冗談で発っした言葉に新しい意義を見出してしまった先生にとって、この言葉は冗談ではなくなってしまった。自殺は以前から考えていたことだが、その大義を言葉にできなかった先生に、この生き返った言葉が大義となったのである。ヒューマニズムとエゴイズムの葛藤はあったろうが、エゴイズムの上に成り立っていると思われる先生の倫理観がエゴイズムの過酷さを和らげてしまう。そこに我執の文学といわれる本質が垣間見える。

 先程のある人物とは忌野清志郎のことだが、忌野の精神にこの先生の精神を見るのである。不遇の時代を超え、これからという時に破廉を辞めさせなければならなかった忌野の心中が、この明治の倫理観に重なってならない。中学生の頃からブルースの好きな少年たちのバンドは破廉の脱退で瓦解した。だが、忌野の殉死の対象は友ではなく音楽、それも中学の頃から始めたブルース色の濃いロックだった。その殉死の決意が化粧等の奇行なのだろう。

 私の推論は外れているのかもしれないが、これが日比谷野音で見たフォークの3人組への私なりのレクイエムなのである。「恥ずかしさを隠すための化粧」とは後の彼の同級生の言葉だが、多分この言葉が的を得てるのだろう。ビートたけしの被り物ももこれと同じだ。