蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

時代17、日比谷野音の昼と夜


 駅から吐き出された人の波が段々疎らになると、歩く人は皆同じような格好の若者ばかりになる。そして電柱や建物には革命、粉砕、天誅などの殺伐とした文字が目立ってくる。この若者たちは皆日比谷野音に向っていた。
 この夜のフォークとロックのコンサートは、最後に頭脳警察が登場すると騒然となる。過激派らしい男は右端中段辺りの客席でマイクを握り、アジ演説を始める。頭脳警察はロックバンドとして高い評価を得ながらも、共産主義的な革命運動が激化する時代に世界革命を叫び、発売禁止や放送禁止となった過激な曲を持つ反体制バンドといわれた。彼らのコンサートではこうした演説が頻繁だったらしい。また最後部の周回通路にはヤマギシ会の人たちの農産物を売る姿があり、普通のコンサートとは違った雰囲気にあった。


 この日、私はRCサクセションが出演するというのでこの会場に来ていた。フォークギターをかき鳴らして歌う「2時間35分」が妙に気になり、そのRCサクセションだけを見に来ていた。
「彼らは国立だよ」
 国立高校の卒業生である友人はそう言った。正確に言えば中学は国分寺で高校は日野だが、私はこの言葉から、長くRCは友人の同窓生だと思っていた。実際は日野高校で、同級生だった三浦友和はサポートメンバーとして演奏に参加したこともあったという。国分寺の中学生の頃から活動してきた同級生バンドの「2時間35分」は、カレッジフォークといわれるものとは明らかに違い、当時の若者の一途な面を見せて私を神妙な心持にさせた。

 これは73年8月のことで、同じ頃、デビューして1年の経った森昌子は中学3年生になり、山口百恵石川さゆりと共に同じく昼の野音のステージに立つ。「祭りだ!ホリプロ花の三人娘」の会場には、当時ホリプロに所属した井上陽水が来ていたという。この年の陽水のアルバム「氷の世界」は、若者の圧倒的な支持を受け日本初のミリオンセラーとなる。そんな絶頂期にあった陽水は、翌74年にホリプロを離れることになるが、この移籍がRCにも多大な影響を与えてしまう。

 そして夜の日比谷野音。開演直後のまだ静かな会場で歌うRCサクセションの姿が印象的だった。ステージ中央にうず高く積まれた音響機器の前で、彼らはフォークギターを鳴らして歌った。だがヒット曲のない彼らに歓声が上がる筈はない。また話は逸れるが、ここにはデビュー間もない五輪真弓も出ていて「少女」を歌うが、RCサクセションと同じで観客の反応は殆どなかった。頭脳警察が出ていたこともあり、ロック系の観客が中心だったのだろう。


 「日比谷野音の昼と夜」はRCサクセション森昌子井上陽水同様、直接的な関係はあまりない。だが、このタイトルは「森昌子と時代」である。その少ない関係、70年代、ホリプロ、先生等の共通点を拾って続ける。その前に、中学3年生の森昌子のその頃と、別の場所のものではあるがRCサクセションの「2時間35分」を再び聴くことにする。


森昌子山口百恵石川さゆり「祭りだ!ホリプロ花の三人娘」
http://youtu.be/Rad4D_WZ6og
RCサクセション「2時間35分」
http://youtu.be/7aSEetyWAWo


 RCサクセションは70年、「宝くじは買わない」でデビュー。メンバーは、忌野清志郎小林和生、破廉ケンチ。出入りはあったものの中学時代からのメンバーである。だがこれといったヒット曲には恵まれず苦難の時代が続いた。彼ら、特に忌野清志郎の活躍は、破廉ケンチがグループを抜け、ギターをフォークからエレキに持ち替えた79年頃以降に始まるが、同時に忌野の奇行は度を増し、見た目も化粧やサイケな衣装へとエスカレートしていく。何が忌野をしてそうさせたのだろうか。こんな思いが長く私の心の中にあった。
 彼らの不遇が始まった74年の頃を、忌野清志郎の公式ホームページ「地味変」とウィキペディアから拾ってみる。更に掘威夫の「いつだって青春」のRCサクセションについて書かれた部分からも引用する。 

 74年、所属事務所内でのトラブルもあって、ほとんど仕事のない状態が続く。年末にワンマンツアーを行うも集客が悪く、途中で公演中止の憂き目に。練習の日々。(忌野清志郎の公式ホームページ「地味変」)
 74年、ホリプロダクションのプロデューサー奥田義行が、当時大ブレーク中だった井上陽水を連れてホリプロを離れ独立事務所「りぼん」を設立。この造反行為に激怒したホリプロは、奥田の子飼いだったRCの「りぼん」移籍を阻止。RCはスタッフも仕事も与えられず飼い殺し状態となる。この頃、3枚目のアルバム『シングル・マン』を録音するも、事務所の移籍トラブルによりお蔵入りになってしまう。(ウィキぺディア)
 明けて昭和45年(70年)はビートルズが解散し、それに倣うようにスパイダースも解散と、GSブームの終焉に拍車がかかってきた。その頃、「RCサクセション」がホリプロに入り、「宝くじは買わない」でデビューしているが、彼らの「ぼくの好きな先生」は、今でも私の大好きな曲で、なぜあれがヒットしなかったのか今もってわからない。リーダーの忌野清志郎の活躍を見るにつけ、懐かしい想い出の一つだ。(「いつだって青春」掘威夫)

 双方の当事者は淡々としたものだが、ウィキぺディアの記述が解りやすく実態に近いものだろう。移籍や独立は特別なことではない。掘威夫はナベプロを離れてホリプロを立ち上げたし、ホリプロでも以前に舟木一夫が騒動の中独立している。こうしたことは芸能界にあっては日常茶飯事と言っても良い。その一つが74年に起こり、RCの活動にも影響を与えてしまった。淡白に表現すればこんなことだろうか。


 最後に、この頃の主な事柄とブログに書かれることを年代ごとに列記する。他にも、ここでは省いたが田中角栄の事件や戦争の終結に関する事柄などもあり、重大な事が続いた年だった。森昌子はこんな時代にデビューしたのである。


 74年のこの騒動でRCサクセションは干される。「りぼん」へ移籍は契約満了の76年まで待たねばならなかった。そしてこの頃、ギターの破廉は精神状態がおかしくなってギターが弾けなくなり、77年に正式に脱退する。これを機に忌野の奇行はエスカレートするのである。