蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

30、森昌子 シャンソンを歌う


 シャンソンとはフランス語で歌のこと。フランス語で歌われた歌をシャンソンと言う。60年代を過ぎると別呼称されるジャンルも出て来るが、それでもシャルル・アズナブールの「Hier encore」はシャンソンだろうし、森昌子シャンソンを歌ったということでいいだろう。その英語バージョン「Yesterday when was young」はプレスーリーで、そして日本語版「帰りこぬ青春」を森昌子の歌での3曲である。


 シャンソンと言えば日本人には、まず「枯葉」だろうか。他にもジャン・ギャバンが立ち去る場面に流れる非情と哀愁に溢れるメロディもあるが、私にはまずエディット・ピアフが浮かぶ。そして森昌子の再デビュー曲は「バラ色の未来」だが…、ここではピアフの歌う「バラ色の人生」が浮かぶ。そのエディット・ピアフに認められたことにより、シャルル・アズナブールは歌手としてより知られるようになったという。そのシャルル・アズナブールシャンソンは、殆どが愛を謳い上げたものだといい、また、その愛は、バート・レイノルズカトリーヌ・ドヌーヴアメリカ映画「ハッスル」(1975)の挿入歌として使われたこの「Hier encore」にも見受けられる。

 次のエルビス・プレスリー。これはアメリカ黄金の60年代を思い出させる。プレスリーといえばキング・オブ・ロックンロールと呼ばれたように、まず「ハートブレイクホテル」や「監獄ロック」が思い浮かぶが、この「Yesterday when was young」に60年代の古き良きアメリカを感じてしまうのは私だけだろうか。

 1970年8月のラスベガス公演とそのリハーサル風景を収めたドキュメンタリー映画エルビス・オン・ステージ」が日本で公開されたのいつ頃だったろう。森昌子がスター誕生に挑戦していた頃か、それとももうデビューした頃だろうか。私は新宿でこの映画を見ていた。いわゆるミーハーの愛玩物だろうとしか思っていなかったプレスリーの凄さを、その映画で初めて知った。確か伊勢丹の近くだったと思うが、何軒かの映画館が並んでいて、目的の映画と間違えて入って見たのがこの「エルビス・オン・ステージ」だった。スクリーンを見て入口を違えたことに気付き悔やんだが、次第にその映画に引き込まれていった。プレスリーは確かに凄かった。


 そして「Yesterday when was young」の歌詞についてである。これは或る人によれば、一時の快楽によって発生した現実に対しての責任の取り方を示したものなのだという。つまり快楽主義から現実主義への移行の意思を示しているのだという。それは、人としての成長や自己の責任、現実との対峙等を示しているのだという。この現実的な愛とは理想の愛を意味するのだろうか。理想の愛とは無償の愛のことなのだろうか。エロスではなくアガペーに目覚めた時を歌ったものなのだろうか。形而下においてさえ今なお不明多々ある私に、これ以上形而上の詳細に話が及ぶ術がないのはお許し頂いて次ぎに進めたい。この3曲である。
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1、 「Hier encore」シャルル・アズナブール
http://youtu.be/HyRF1CjOPQ8

2、 「Yesterday when was young」エルビス・プレスリー
http://www.youtube.com/watch?v=sDwjLhEdwCc

3、 「帰りこぬ青春」森昌子
http://youtu.be/UWkNwaFPZZc
(12.3)
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 森昌子「帰りこぬ青春」には愛情のこまやかさを見る。木村好夫のギターもいいが、森昌子の切々とした歌に現実を直視した細やかな愛情を感じる。こうした歌は彼女の特徴を忠実に引き出すようだ。そして「切々」と言えば、スター誕生における阿久悠の記述「せつせつと歌い、感心させ、感動させた森田昌子の天才少女ぶりが全てで…」があるが、この言葉を再び思い出す。この「せつせつ」は心に迫るさまを言い表したものだろうが、私の辞書に「切々」とはこう書いてある。

  • ① 愛情のこまやかなこと
  • ② ねんごろなさま
  • ③ 心に迫るさま

 13歳の少女の歌をこの言葉で表現した阿久悠は驚異である。そして彼にこの「せつせつ」感を抱かせた少女もまた驚異である。私はずっと阿久悠がこの少女の歌の何処に、この「せつせつ」とした情感を見たのだろうかと考えてきた。阿久悠の心に迫ったものは何だったのだろうと考えてきた。しかしその結論を私が言える立場にはない。それは阿久悠の感性であり、阿久悠本人の口から言われない限り真実とは言えないからである。ただ敢えて言うなら、阿久悠は自分の心に迫って来た少女の情感をどうすることもできず、否応なく、それらの全てを受け入れるより他はなかったのだろう、ということである。そうでなければこうした言葉が出てくる筈がない。それがこの「せつせつと歌い、…」の表現になったのだろうと思う。そして、後の美空ひばりの「昌子の歌には心がある」との言葉は、奇しくもこの阿久悠の言葉と同義であるが、単なる偶然であるまい。共に辿り着くべき必然であったのだろう。


 この切々感は今なお彼女の重要な感性の一つで、再デビュー後のこの歌にも見られる。「金木犀の手紙」である。20年のブランクがあれば歌唱が相当に変わるのは当たり前のことだろう。歌い続けて来た人でさえそうなのであるから、その期間歌を離れていた人おいては勿論のことである。だが、森昌子がその期間を経てもなお持ち続ける感性がこの歌「金木犀の手紙」に見える。「涙の連絡線」「帰りこぬ青春」に共通する切々とした感性に溢れている。そこに成熟した女性の細やかな愛情が見える。懇ろな様子が伺える。
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追加:「金木犀の手紙」森昌子
http://www.youtube.com/watch?v=ZP6olAhOZvo
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私の辞書:「新潮国語辞典―現代語・古語―」久松潜一監修 昭和40年11月30日発行