蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

29、森昌子と1972年頃

1、「ルイジアンナ」(1972)
歌手:キャロル、作詞:大倉洋一、作曲:矢沢永吉

 キャロルは森昌子がデビューした72年暮れにデビューしている。この時、矢沢永吉は23歳であり、森昌子の10歳上という事になる。この10という数字がこの後も何度か出てくるのに気付き、書いていて不思議に感じた。無論、何らかの関係があるとは思えないが…。

 キャロルは結成の頃、バンド員募集の貼紙に「ビートルズとロックンロール好きなヤツ求ム」と書いたように、元々ビートルズの信奉者であり、その曲目もコピー中心だった。「松葉の流れる町」の中で「驚くべきバンド」と書いたのがこのキャロルである。その中では当時の印象のままを記したが、今聴くとその印象の記述は若干違っているのかなと思わぬでもない。それでも驚くべきバンドであったことに変わりはなく、3年という短い期間ながらも日本音楽界に強い印象を残し、以降の日本のロックシーンに大きな影響を与えたバンドに変わりはない。
http://www.youtube.com/watch?v=Xy5EdmxzbKU
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2、「Love me do」(1962)
歌手:The Beatles、作詞・作曲:Lennon/McCartney

 イギリス・リヴァプール出身のロックバンド。世界で最も成功したバンドといわれる。今更、ビートルズについてあれこれと書く必要もなかろうと思うので詳細は割愛させて頂く。72年の頃、日本の音楽は欧米に比べて10年遅れていると良く言われた。それはこのビートルズデビューの62年が念頭にあったのかどうか不明だが、何れにしても、当時の音楽関係者が10年の差を感じていたのは事実だろう。さて、その現在はどうなのだろうか。
http://www.youtube.com/watch?v=_xuMwfUqJJM


 歴史的イベントとなったビートルズ東京公演の概要を、ウィキペディアの記述を要約して以下に引用する。これで「当時の雰囲気」を少しでも感じて頂ければ幸いなのだが…。

月日:1966年6月30日〜7月2日
場所日本武道館
司会E・H・エリック
前座:尾藤イサオ内田裕也、望月浩、桜井五郎、ジャッキー吉川ブルーコメッツ寺内タケシとブルージーンズザ・ドリフターズ
公演を見た著名人(50音順): 梓みちよ(歌手)、淡谷のり子(歌手)、石原裕次郎(俳優)、上田三根子(イラストレーター)、宇崎竜童(ミュージシャン)、遠藤周作(小説家)、(作家)、おおくぼひさこ(カメラマン)、大島渚(映画監督)、大佛次郎(作家)、加賀まりこ(女優)、加瀬邦彦(作曲家)、加橋かつみ(ザ・タイガース)、かまやつひろし(ザ・スパイダース)、岸部一徳(ザ・タイガース)、岸部四郎(ザ・タイガース)、北杜夫(作家)、桐野夏生(作家)、黒柳徹子財津和夫(チューリップ)、堺正章(ザ・スパイダース)、ザ・ピーナッツ(歌手)、沢田研二(ザ・タイガース)、志村けん(ザ・ドリフターズ)、JEAN(詩人)、高田文夫(放送作家)、多湖輝(心理学者、大学教授)、仲井戸麗市(古井戸、RCサクセション)、中尾ミエ(歌手)、中山ラビ(歌手)、萩原健一(ザ・テンプターズ)、ばんばひろふみ(フォークシンガー)、平尾昌章(作曲家)、星加ルミ子(『ミュージック・ライフ』編集長)、松崎しげる(歌手)、松村雄策(音楽評論家)、松本隆(はっぴいえんど)、三島由紀夫(作家)、湯川れい子(音楽評論家)、横尾忠則(美術家)、芳村真理(司会者)、布施明(歌手)、早川義夫(ジャックス)

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 館内の音響設備からも音を流していたと言うことは、客席天井からも音が出ていたということであり、スピーカーに近い席に座っていた人、または、舞台上の東京音響が設置したスピーカーの近くに座っていた人にはかなり聞えていたと考えられるが、席によっては全く聞えなかった事は十分考えられる。
 マスコミはビートルズの音楽そのものよりも、周囲の狂乱ぶりを報道。さらに当時の目撃者がプロもアマチュアもそれぞれに強い思い入れを以って語るために客観的な証言が少なく、ビートルズ日本武道館公演は「当時の雰囲気」以上に詳細な内容を知ることは難しい。

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3、「春よこい」1970
歌手:はっぴいえんど、作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一

 これは1972年解散後の1973年、このライブのために再結成されたもので、オリジナルメンバー大瀧詠一鈴木茂細野晴臣松本隆の4人の他に鈴木慶一(ピアノ)が加わっている。あのビートルズのアップルビル・ルーフコンサートにビリープレストン(キーボード)が参加しているように。

 4人のメンバーは宮沢賢治に影響を受けているといわれ、その世界観が音楽にも影響しているようだ。ちなみに、岩手の出身は大瀧詠一のみで他の3人は東京都である。「春よこい」はその辛い歌詞や重々しい歌唱を超えて日本語らしからぬ発声に新鮮な印象が残る。私にはイーハトーブの丘に流れるメロディのように響いてくる。はっぴいえんど、特に大瀧詠一イーハトーブへの想いを感じる。
http://www.youtube.com/watch?v=HhPURLflKFg


 イーハトーブ宮沢賢治の造語である。そして賢治は、石川啄木が26歳の若さでこの世を去った時、16歳の盛岡中学の生徒であった。奇しくもまた二人の歳の差は10歳である。一時、石川啄木の影響で短歌も作ったという賢治のイーハトーブは、同郷の歌人であり、盛岡中学の先輩でもある啄木にとってもまた重要な問題だった。石川啄木は故郷、渋民村追われている。しかし故郷への想いはずっとあったのだろう。こんな歌を詠んでいる。


 ふるさとの山に向ひて
 言ふことなし
 ふるさとの山はありがたきかな


 しかし、啄木にとっての「故郷」とは、イーハトーブとは、一体何だったのだろう。外岡秀俊は「北帰行」の中でこう書いている。

 村の中でこれほど弧絶していながら、なぜ彼はふるさとを恋焦がれたのだろう。そして村に根付こうとしない彼を拒絶した渋民が、なぜ彼の死後に「啄木のふるさと」になってしまったのだろう。啄木にとっての渋民とは、蕩児が酔いの醒めぎわに想う故郷ではなく、文字通りそこに容れられることのなかった預言者にとっての故郷ではなかったか。帰ることができなかったからこそ、渋民は渋民だったのではないだろうか。
(中略)
 ふるさとは、故郷から追い出されることの痛みであり、啄木が故郷の歌人になったのは、生まれながらにして村から拒絶されていたためなのだった。彼がその体験を蒼氓と共有するためには、自らが無名の流民となって地を這い、その天才意識を消し去らねばならなかった。東京でのどん底の生活を振り返って、彼は独り言のようにこう書き記す。「ふと、今迄笑ってゐたような事柄がすべて、急に、笑ふことが出来なくなったやうな心持になった」と。

 そして外岡はこう結論づける。「啄木のふるさとは啄木の旅に他ならない」と。


 啄木の墓は今、立待岬にある。森昌子が歌ったあの「立待岬」である。


付録:「立待岬森昌子
http://www.youtube.com/watch?v=x_u8jw6TT_U