蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

25、森昌子と民謡

1、「会津磐梯山」(福島県)

 会津地方で広く盆踊り唄となっている「会津磐梯山」は、会津民謡「玄如節」からの転用で、昭和10年頃に小唄勝太郎のレコードに吹き込まれ、「おはら庄助さん なんで身上つぶした…」のおはやしが入り、「会津それが全国的に広まり有名になったといわれている。 民謡「会津磐梯山」は三十番まであります。

1 会津磐梯山は宝の山よ 笹に黄金がなりさがる
2 東山から日にちの便り 行かざなるまい顔見せに
3 会津盆地の緑の夏よ 風もほがらに鶴ヶ城
(おはら庄助さんなんで身上つぶした 朝寝朝酒朝湯が大好きでそれで身上つぶした ハァもっともだ もっともだ )
4 北は磐梯南は湖水 中に浮き立つ翁島
5 会津磐梯山に振袖着せて 奈良の大仏婿にとる
6 親の意見となすびの花は 千に1つの無駄はない
7 会津名物数々あれど 漆器こけしに桐の下駄
8 揃うた揃うたよ踊り子が揃うた 秋の出穂よりよく揃うた
9 踊り踊らば姿(しな)よく踊れ 姿(しな)よい娘を嫁にとる
10 会津磐梯山はあの様に若い 湖水鏡で化粧する
11 主が唄えば踊りがしまる 櫓太鼓の音もしまる
12 今年や豊年穂に穂が咲いて 道の小草に米がなる
13 誰か来たようだ垣根の外に 鳴いた鈴虫音をとめた
14 お月様さえ夜遊びなさる わしの夜遊び無理も無い
15 月はまんまる踊りも丸い 主とわたしも丸い仲
16 盆が来た来た山越え野越え お手々つないでこの町へ
17 忠義一途のあの稚児桜 散りてその名も白虎隊
18 主と私は羽織の紐よ かたく結んで胸におく
19 恋の滝沢船石越えて 親は諸白子は清水
20 主は笛吹く私は踊る 櫓太鼓の上と下
21 縁がありゃこそ見知らぬ人に 一目会津で忘られぬ
22 目出た目出たの若松様よ 枝も栄えて葉も茂る
23 お月様なら盛りは十五 わしの盛りはいつじゃいな
24 踊り上手とうわさの種を 撒いてうれしや恥ずかしや
25 揃うた揃うたよ踊りが揃うた 笛や太鼓の音も揃うた
26 蕾散らしてその名を残す 花のほまれは白虎隊
27 朝寝朝酒朝湯がよけりゃ おいでなされや東山
28 会津磐梯山は嫁入り頃よ 花の振袖雪化粧
29 今夜初めて我が子の踊り 褒めてやりたや親心
30 会津磐梯山は俺が父っつあんの山だとさ 父っつあんが亡くなりゃ俺らが山 (「会津っ子さん」のHPより)

http://www.youtube.com/watch?v=bjM6MTkN2rc
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2、「三坂馬子唄」(愛媛県

 愛媛県松山から高知県へ抜ける国道33号線が開通するまでは、久万街道が重要な交通路であったといいます。またかつての四国霊場八十八ヶ所遍路道としても利用されていたそうです。中でも三坂峠は往復に一昼夜かかり、久万街道最大の難所であったところ。その三坂峠越えの馬子達(久万山馬子、明神馬子)が歌ってきたのが「三坂馬子唄」です。
 この唄は七七七五調の馬子唄です。西日本ではいわゆる「馬子唄」はそれほど多くないと思います。これは西物の馬子唄の中では大変美しいメロディのものです。
1 三坂越えすりゃ雪降りかかる 戻りゃ妻子が泣きかかる
2 わしも若い時ゃ久万まで通うた 三坂峠で夜が明けた
3 わしも若い時ゃ城下まで通うた 高井の川原で夜が明けた
4 馬も辛かろ馬子衆も辛い 久万の三坂を後に見て
5 むごいもんぞや久万山(明神)馬子は 三坂夜出て夜戻る
6 わしが若い時ゃ小田まで通うた 小田の河原で夜が明けた
7 馬よ歩けよ沓買うて履かそ 戻りゃ唐黍(とうきび)煮て食わそ
8 三坂峠を手綱をせなに 越えりゃ松山近くなる
9 急げ栗毛よもう日が暮れる 戻る山道辛くなる
10馬子も辛かろ峠にかかりゃ 月の明かりと鈴頼り(HP「線翔庵」より)

 動画は既に削除されたようである。その代わりにしては艶っぽさに欠けるが、14歳の少年正岡子規がこの峠に立って作ったとされる詩を記す。七言絶句である。(日本歴史地名体系「愛媛県の地名」より)

欹危小径破晨行 松樹蕭森絶世情
独停竹筇回首望 白雲湧所是松城

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3、「祖谷の粉ひき唄」(徳島県

 高知県から流れる吉野川をたどると、大歩危小歩危の奇勝を経て徳島県に入り、ここから一方は愛媛県へ、もう一方が祖谷川となる。更に上流は剣山がそびえており、その麓が、屋島の戦いに敗れた平家の落人が逃れ住んだという日本三大秘境の一つ、三好郡西祖谷村となる。四国の屋根とか阿波のチベットなどと呼ばれている祖谷地方は、傾斜の急な山ばかりで空らしいところはない。現在でこそ道路も通って車やバスが往復し、その渓谷の美しさ、特に秋の格別さを知る人は多いが、自給自足のかつては、粟、稗、とうもろこし等を粉にして常食とするなど、急傾斜地農業に依存するのみであった。その粉引き作業は主に、嫁の夜なべ仕事であり、昼間の疲れからくる睡魔に耐えるために唄われたのが、この「祖谷の粉ひき唄」なのである。

 いくつかの落人伝説に於いて、かずら橋が天然の「しろくちかずら」で作られている理由として、源氏の追討使が攻めてきた時にすぐ切り落とせるためというのが専らの説であるが、かたや、揺れる橋を見て遠い京の都を思い唄ったのではないかなどという説もあって、興味深い。

 昔は多くの歌詞が唄われたが、特に橋を渡るのに非常に苦労したのでこの歌詞がよく唄われた。東祖谷にも同様の唄があったが、今では里唄と呼ばれて残っている。またこの唄の美しさは繰り返しにあるので、その部分を掛け合いで唄うなどの工夫も面白い。「蜘蛛の巣(ゆ)」という方言の味を生かして唄いたいものである。(「日本民謡BLOG」より)