蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

俳句30 じゃがいもの花


じゃがいもの花

「北海道無料写真素材 DO PHOTO」より
http://photo.hokkaido-blog.com/


 スター誕生予選会における少女を、阿久悠はじゃがいもの花に喩えた。大人たちの中にいたたったひとりの少女に、小さな素朴で可憐な花を見たのだろう。そこにこの少女に対する親しみと慈しみが感じられる。阿久悠が言うように、じゃがいもの花は愛でる花ではないのかもしれない。しかし心に残る花ではあったのだろう。


 去りがたしじゃがいもの花盛りなり  夏


 そして月日は巡りて秋が来る。歌詞を調べたが、「雲流れる」や「からす瓜」の語はA面曲の中にはなかった。全曲阿久悠の詞という『昌子哀愁』はどうなのだろう…。
 色鮮やかに色づいたからす瓜が陰りの中でその色を失っていく。そんな情景は秋の夕暮れ毎のことなのだ。しかし、哀愁の秋である。ふと手にする口紅にも少女の横顔にも、哀愁が漂うのはやむを得まい。


 雲流れ陰に入るるやからす瓜  秋


 更に時は流れて冬になる。進む夕暮れの道の先の、それでもまだ明るさの残る空には百合鷗が飛んでいる。そんな情景だろうか。「鷗唄」のこの句と同じ世界である。夢いずこ帰路の標や百合鷗。


 仄かなる行く道細し冬ざるる  冬


 古典文学に登場する「都鳥」は、和名の「ミヤコドリ」ではなく「ユリカモメ」であるという。その根拠が『伊勢物語』にあるらしいのだが、ここではその中のこの歌の紹介だけにとどめよう。

 名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと