蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

時代30、森昌子と劇場(7)


8、帝国劇場(1)
1978年「7周年記念特別公演」

(写真「ウィキペディア」より)

  • 通 称: 帝劇
  • 所在地: 東京都千代田区丸の内三丁目1番1号
  • 開 館: 1911年3月1日
  • 客 席: 1階1290席・2階688席
  • 用 途: ミュージカル、演劇
  • 設 計: (現在・二代)谷口吉郎、(初代)横河民輔
  • 運 営: 東宝株式会社

 帝国劇場は日本初の西洋式演劇場としてルネサンス建築様式を取り入れ、1911年(明治44年)3月1日に竣工した。当初はオペラやシェイクスピア劇の他にも、六代目尾上梅幸と七代目松本幸四郎が専属俳優となって歌舞伎も上演した。
 この帝劇の出現によって、先行の歌舞伎座は洋風を捨て和風にする。住み分けで共存を選んだのだろう。ウィキペディアから帝劇の概歴です。
1911年(明治44年) 初代竣工
1923年(大正12年) 関東大震災により被害
1924年大正13年) 改修して再開
1930年(昭和5年)  経営が松竹に移り、洋画封切館となる
1939年(昭和14年) 運営会社と東宝が合併
1940年(昭和15年) 東宝の単独経営となり演劇主体となる
1955年(昭和30年) 巨大スクリーン・シネラマ設置。洋画ロードショー主体となる
1964年(昭和39年) 閉鎖解体
1966年(昭和41年) 二代目竣工(9月29日)、設計:谷口吉郎


 1969年(昭和44年)から84年(昭和59年)までは日本レコード大賞の会場となった。後に語られた「ちあきなおみ つけまつげ事件」は、この帝劇からNHKに向かう途中のことだったのだろう。
 77年が高校卒業や高三トリオの解散などで始まり、年末の紅白もあるが新歌舞伎座での公演で幕を閉じたとするなら、78年は9月の帝劇での7周年公演がその締めとなる。6月から始まった「MM7全国ツアー」最終公演として位置づける意味も含まれるのかもしれないが、77年のビッグショーで見せた壮絶な旅立ちは、この帝劇での公演で一旦の区切りとなるのである。
 歌そのものを探れば、その履歴の前半は浅草国際時代の往年の演歌であり、後半は15周年やファイナル、他で見せた研ぎ澄まされ歌唱にその特徴があるが、森昌子の変容する心は77年から78年のこの頃に顕著となる。奇しくも、その初期の歌声を鮮烈に示した浅草国際での新春公演はこの78年が最後となり、79年からは新宿コマに舞台を移す。その変容する心と共に浅草時代終焉の時を迎えるのである。新宿コマへの転換は、これが歌い手の問題ではなく単に施設の老朽化に原因があるにしても、時期が時期だけに曰くありげではある。
 78年の略歴と、前回の新歌舞伎座同様その年に発売されたシングルとアルバムを参考までに記します。シングル4枚、アルバム4枚と、この年も多く、他にも全国ツアーや7周年記念映画、テレビドラマと更に多岐に渡っている。


1978年の略歴
1978年1月 「7周年記念公演」(浅草国際劇場)(14〜22)
1978年6月 「MM7全国ツアー」(6大都市)開始(27日)
1978月6月 7周年記念映画「お嫁にゆきます」(東宝)封切り
1978年8月 第4回日本テレビ音楽祭入賞「津和野ひとり」
1978年9月 「7周年記念公演」(帝国劇場)(21日)
1978年10月 20歳誕生パーティ(東京プリンスホテル)(13日)
1978年10月 ドラマ「おはなちゃん繁昌記」(テレビ朝日)(〜翌1月)
1978年12月 第29回NHK紅白「彼岸花」6回目

1978年のシングル
3月「父娘草」
6月「津和野ひとり」
9月「彼岸花
10月「晴れたり降ったり曇ったり」

1978年のアルバム
4月「すぐに消えそうな愛なら」
7月「十九歳の演歌 港・桟橋・別れ唄」
9月 7周年記念映画「お嫁にゆきます サントラ盤」 
11月 7周年記念「熱唱ひとり舞台」


 前回に聴いた岩崎宏美の「思秋期」、ある人は彼女のベストだとコメントしている程の傑作だった。並べられた青春期・恋夏期・思秋期・感冬期の言葉はいかにも阿久悠らしいし、初めて聴いたが、なるほどと思う。そこで再び聴くことにした。森昌子は帝劇ライブ盤「熱唱ひとり舞台」から杉紀彦詞、服部克久曲による「いつまでも愛していたい」です。


岩崎宏美「思秋期」
http://youtu.be/4Nh-pnMnvQo
(9/27)(11/26)
森昌子「いつまでも愛していたい」
http://youtu.be/FCSflvikZmA


(続く)