蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

Edesu44、若藻幻影


水彩色鉛筆

 「未完成夕顔」を「若藻幻影」とした。
 753年、九尾の狐は15、6才の少女若藻に化けて鑑真らの乗る遣唐使船に紛れ込み日本にやってきます。そして平安時代の後期、鳥羽上皇に仕える女官、後にその寵愛を受ける玉藻の前として人々の前に現れます。絶世の美女玉藻の前はまた知識も豊かでした。しかし、その正体を陰陽師安倍泰成に見破られ、住処としていた那須野へと逃れますが、多勢の追っ手の前に行き場を失い、黒羽の鏡ヶ池で最後を迎えます。その怨念は今なお、殺生石となって毒気を放っているのです。

 安倍泰成の祖先、安倍晴明にも狐にまつわる言い伝えがあります。


 恋しくば尋ね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉


 これは葛の葉が正体がばれるのを恐れて家を出る際、我が子に書き残したものです。葛の葉は狐の化身だったのです。そして残された童子が後の安倍晴明です。また、栃木県の那須地方にはこんな餅つき唄が伝えられています。


 恋しくばたずね来てみよ
 下野のこてやの綾織が池
 綾を織らずに錦織りなす


 ただこれは、こてやの綾織が池に住む綾織が池の姫と言われた織り物の得意な女性の話で、狐や玉藻の前との関係ではなく、那須織りと言われた絹織物について歌われています。


 創作「松葉の流れる町」でつぐみが歌ったのは栃木県北部の小さな神社の神楽殿でした。その後ろに玉藻の前と玉藻稲荷の狛狐を描いてみました。この絵を描きながら高三トリオの記念樹がある赤坂豊川稲荷の叶稲荷や霊狐塚を想うと、なにやら不思議なものを感じます。
 玉藻の前は、酒呑童子崇徳上皇と共に日本の三代悪妖怪とされますが、玉藻の前のモデルが皇后美福門院(藤原得子・ながこ)と言われることを思えば、単なる悪の権化ではなく運命に弄ばれた悲劇のヒロインの一面を持ち合わせているような気がします。しかし、知られる経緯が御伽草子人形浄瑠璃、読み物などでしたから、悪名高き妲己やインドの華陽夫人などと同列に並べられ、興味引く面を強調されて語り継がれてきたのではないのでしょうか。それは酒呑童子崇徳上皇にも言えるのかもしれませんが。ちなみに日本の三代妖怪というと鬼・天狗・河童だそうです。玉藻の前は「悪妖怪」と悪の面が強調されています。


 黒羽町(現栃木県大田原市)の九尾の狐最後の場所、鏡ヶ池には玉藻稲荷が祀られています。蝉に化けて本性を隠しますが、鏡ヶ池に正体が写り討たれてしまうのです。1193年、那須遊猟の源頼朝が参詣したと伝えられ、また、1689年に奥の細道の途中黒羽に立ち寄った芭蕉は、4月12日にこの玉藻稲荷を訪れ、往時を偲んだと言われています。
 黒羽町教育委員会発行の冊子「芭蕉の里黒羽」のイラストをご覧ください。社殿左に源実朝の歌碑、右手には芭蕉の句碑や鏡ヶ池、狐塚などが記されています。書き漏らしていたので書き加えましたが、「俳句11 那須野が原」の絵はこの冊子の表紙です。
イラスト


 源実朝の歌碑
 もののふの矢並みつくろう籠手の上(え)に霰(あられ)たばしる那須の篠原


 芭蕉の句碑
 秣(まぐさ)負う人を枝折の夏野かな


 玉藻稲荷の狛狐は玉をくわえて天を見つめています。三国に散ったと言われる玉藻の前の魂を口中にその再来を待っているのでしょうか。それとも尻尾に脱殻を残し飛び立った蝉の行方を見守っているのでしょうか。

 これを描きながら、実は変な想いにに駆られてしまいました。信太の狐は若藻だったのではないのかと。玉藻稲荷の狛狐が愛でる子狐こそ安倍晴明その人ではないのかと。勝手に思いを巡らせながら晴明の桔梗紋を柄にしてみました。五芒星は晴明が母から受け継いだものだったのではとして…。
 母、お袋とは不思議なものです。直接関係はありませんが、こんな歌はどうでしょう。私の変な想いによれば、安倍泰成が胸中に涙を隠して先祖に対峙したことを人は知らないのです。


森昌子「母に手紙を書くときは」
http://youtu.be/2iNbFlHEm8c