蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

俳句17 清く貧しく美しく

 

 再び「清貧の思想」、その廿二「庶民に生き続けてきた清貧の思想 清く貧しく美しく」から。著者の母親について書かれた部分を引用。 

 私の母がふだん口にしていたのは「もったいない」という言葉でした。これは表面上は「物を粗末にするな」ということですがたんに倹約せよというのではなく、もっと深い「神仏に対して不届きである、畏れ多い」という意味がこめられています。食物なら米の一粒、菜の一切れでも、充分にその用を果たさないでムダにすることを、いのちを冒涜する行為、天に対して畏れ多い行いだというのです。だから彼女は紙一枚、紐一本でもいたずらに捨てずにとっておいて、必ずその用をなさしめ、決してムダにはしませんでした。
 彼女は日本が高度経済成長期に入ったころ、すなわち今日の大量生産=大量消のサイクルに生活がまきこまれたころまで生きていましたが、大人ばかりか子供まで物を大事にしなくなって平気で捨てるようになった風潮を歎き、「空恐ろしいことだ、こんなに物をムダにしていてはそのうち天罰があたろう」と言っていたものでした。(「清貧の思想」中野孝次

 ここに書かれた母親の姿を奇妙に思う人がいるのだろうか。私の母も、これほど徹底してはいなかったが、大体こんな感じだった。過去形にしたが母はまだ健在で、かってを思い出してのことなのですが。
 そして、こうした姿を今、我々はワンガリ・マータイに見ることになる。Reduce(消費削減)、Reuse(再利用)、Recycle(再生利用)という環境活動の3Rを一言で表せるだけでなく、Respect(尊敬)の意味も込められているこの言葉「もったいない」は、他の国の言葉にはないものだとマータイは言います。この言葉のもつ奥深さに感動した彼女は、次世代へのメッセージとして、環境を守る国際語「MOTTAINAI」を世界に広げる決意をしたのだそうです。ワンガリ・マータイの「もったいない」運動によって、古い言葉が消えていく日本語の中にあってこの言葉は生き残るのかもしれないと思うと、日本人はもっと母国語を大事にするべきなのではと思わずにはいられません。言葉を借りますが、「もったいない」気がするのです。

 そして著者の母親の時代、それは「時代23、寒い朝と故郷と幸せと」でも触れたのですが、豊かさも、幸せも、何も言葉にする必要のない心象があったはずで、そうした原風景を私は「寒い朝」の歌詞の中に感じるのです。

清貧とはたんに貧しいことではない、自然といのちを共にして、万物とともに生きることなのですから。
(中略)
 むろんどの時代でも同じ人間である以上は、いつも貪欲な者、富に奢る者、売名者、権力志向者はいたわけですが、そういう連中は庶民の日常感覚では悪役と見做されてきたのです。(「清貧の思想」中野孝次

 清貧の思想は、やおろずの神を祀って自然と共に生きた日本人の清廉さを示すものなのだろう。古来より日本人は、物質の豊かさではなく心の豊かさを大切にしてきたのかもしれない。芸術家ばかりでなく庶民でさえも、「清く貧しく美しく」を生活の基本としていたのだ。バブル崩壊の頃に出されたこの本は、今もなお日本人に、その心のあり方を問い続けている。


 時すぎて木の葉いちまい舞うにさえ