蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

沈黙(14)


水彩

 前回は古き良き時代のアメリカの少年、そして今回は天上の伎楽。天空の遥か彼方におわします悲母観音の御姿。菩薩だから本来は男性なのだろうが、それはそれとして…。合掌


 モントレーには、かってイワシ漁に湧いた頃を描いた壁画があり、キャナリーローには缶詰工場が土産物店として残っていました。裏町に入ると、今なおノスタルジックな雰囲気を漂わせた建物が並び、「エデンの東」の時代を彷彿とさせます。その頃の人間の欲望や自堕落さに満ちた場所として描かれたこの町は、今はその影を消し、どこか懐かしさを感じさせます。戦争のあった頃、神ではない生身の人間が奔放のままに生きた町なのです。今日が来ることを神は見抜いていたのかもしれません。そんな思いを抱きながら巡り歩いたモントレーの町に別れを告げ、三人はジャックの運転でサリナスへと向かいました。

 「エデンの東」の中でアダムは言います。「他の動物と違い、人間だけが善人になるか悪人になるか選ぶことができる」と。善の塊である父アダムや兄のアロンと共にキャルが生きたサリナスには、今も広大な大豆畑やレタス畑が広がっていました。アメリカのサラダボウルと呼ばれる農業の町なのです。そこに立つとアダムの言葉が分かるような気がします。抜けるような青い空と限りなく広がる緑の大地は、今なお愚かしくも愛おしい人々の営みを静かに見守り続けているようでした。

 ジャックは確かに変な奴だったのですが、秋葉君の友人と知って、モデルは少し気を許し始めていました。もう何時間も一緒にいるのですから当然と言えば当然なのかもしれませんが、もしかしたらジャックは、モデルには話しやすい人物だったのかもしれません。サリナスに記念館として公開されているスタインベックの生家を見学した時、熱心に見て回るマリアを既に見終えた二人は記念館の入口で待っていました。


「ねえ、ジャック。知ってるなら教えて頂戴。何故、秋葉さんが私のことを心配してくれるのか。私も初めて会った人を信じてアメリカにまで来てしまったのだから、変と言えば変だけど、秋葉さんもちょっとおかしいと思うの。私とは初めて会ったのに、いろいろ心配してくれて。ねえ、ジャック、そう思わない」
「…」
「秋葉さんには言わないから、知ってるなら教えて頂戴」
「僕は何も知らない。彼からはただ頼まれただけだから」

 乱穂先生の絵のモデルとなった若い歌手。世間からは天才と囃され多忙をきわめていたこの歌手を、秋葉君は何故こんなにも心配したのでしょう。それは歌手本人ならずとも不思議でした。しかし、秋葉君がそれを明かすことはなかったのです。単なる気まぐれなのでしょうか。それとも何か理由があってのことなのでしょうか。 
「その時、何故って訊かなかったの。ジュディが恋人だってことも教えてくれなかったのよ。何か変じゃない」
「初めて会った人だからだろう。僕は親戚の子かなと思ったけど」と、ジャックは眉間に皺を寄せ眼窩を狭めます。
「そう、親戚の子。私は秋葉さんの従兄妹ってことね。分かったわ、もういい。もうあなたとは口をきかないから、そのつもりでいてね」
 モデルはなかなか性格がはっきりしているようです。ジャックも困り果て、ますます眉間の皺を深くしていました。
「ガール、そんなに冷たくするもんじゃないよ。分かった、言うよ。正直に言うから僕を恨まないでくれ。確かあの時、彼はこう言ったんだ。彼女は日本の宝だからくれぐれも頼むって。何かの時は君が守れって。僕に任せるぐらいだから彼の冗談だと思ったけど…、だからそんな顔をするなよ、僕を恨まないでくれ。ガール、君が言えって言ったんだぜ。君に思い当たる節はないのかい。天才と言われている君に何か…」
「そう…」モデルは何か考える様子でしたが、
「ありがとう、ジャック。あなたはいい人ね」と直ぐ元に戻っていました。そして建物の中に向かって叫びます。
「マリア、もう帰りましょう」
「なあに、もういいの」
「もう充分に見せてもらいました。モントレーとサリナス。さあ、帰りましょう、秋葉さんが来ているかもしれないから」
「分かったわ、ちょっと待って」マリアは館員と一言二言、言葉を交わしてから出てきました。
「マリア、途中で野菜を買って帰りましょう」
「野菜?どうしたの突然…まさこは野菜が嫌いじゃなかったの」
「いいえ、今日は野菜を食べましょう」
「いいわ、お好きにどうぞ。ところで、ジュニア、あなたはどうするの、サンラファエロに来る?」
「それはまずいよ、途中まで送るよ。サンフランシスコの市内まで」


 サンフランシスコから南へ百数十kmのモントレーとサリナス。カルフォルニア大自然は喜びも悲しみも総てを包み込み、疲れた体を癒してくれたようです。大自然の中にいると邪気が消え、人は幼い頃の純真な気持ちを呼び戻すものです。その大自然は抜けるような青い空の下、ずっと前からそうだったように今日もまた静かに果てしなく広がっていました、とさ。
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 誰でもいい僕の話を聞いてくれないか
 僕の前に現れたあの娘の話を
 僕を悩ますあの娘なんだ
 今日はもう口をきかないって僕を脅すんだ


 ジャックが日記を書いているとしたら、その日はこんな風に書いたかもしれません。それではジャックのために再びこの歌を。
ビートルズ「Girl」
https://youtu.be/Q7CWwHshcZg(15.5.7)