蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

沈黙(11)


 その頃モデルはマリアと出かけていました。
「今日、トムが来るの。私は出かけられないから、二人でどこかへ出かけたら」
 その朝、ジュディがそう言ったのです
「そう、いいの。まさこ、行きましょう、ロサンゼルスへ」
「ロサンゼルス?」
「そう、ロサンゼルスの美術館。72億円の絵を観に行きましょう」
「72億円の絵、すごい。あっ、もしかしてゴッホ
「正解、ゴッホの『アイリス』。さあ、まさこ、ポールゲティ美術館へレッツゴー」
 マリアは急に浮き浮きとして、いつの間にか着替えを済ませていました。行く気満々です。
 マリアは浮世絵にもゴッホにも詳しいわけではありません。キッドから浮世絵の話を聞かされ、その時のゴッホと浮世絵の関係を覚えていて、そして衝撃の72億円のニュースをモデルの顔を見て思い出したのです。その『アイリス』がロサンゼルスの美術館にあることも…。急にその絵が観たくなったのです、モデルと一緒に…。


「アイリス」(ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ
 

 大地の生命力を謳いあげた生気に満ちた藍色の花。ゴッホが自らの生命力を塗り込めた『アイリス』は、ゴッホが愛した浮世絵の構図を取り入れつつ、これまでの静物画には類を見ない躍動感にあふれる傑作である。(「週間世界の美術館 NO63」講談社)尚、後ろの黄色い花は金盞花。

 『アイリス』は例の耳切り事件の後にサンレミの精神病院で書いたもので、死の1年前のものでした。『ひまわり』にみられる黄色のあの激しい情熱ではなく、静寂とも言うべき深い青を用いた作品で、その青は浮世絵の藍に影響を受けたものとも言われています。その頃、弟のテオに宛てた手紙に「発作への恐怖を感じなくなった。ここへ来てよかった」と書いているように、ゴッホは平常心を得て、憧れの浮世絵や日本に対する憧憬をそのまま絵にしているようです。サンレミに移る前にもアルルから、「黄や紫の花が咲き乱れる田園に囲まれた町は、夢に見る日本そのものだ」と記しており、その日本の面影を病院の庭先に咲くアイリスに見ていたのかもしれません。カキツバタに似たアイリスの青に浮世絵の藍を重ね、切花ではなく大地に生えるアイリスに自らの命を託して描き上げたのでしょう。束の間の平安がゴッホに青を選ばせていたのです。常に孤独や不安と隣合わせだった画家にとって安らぎの時だったのでしょう、静寂の青がそれを示しているように思われてなりません。しかしその安らぎも長くは続きませんでした。翌年にゴッホは自殺し、37年の生涯を閉じてしまうのです。

 この絵は1987年ニューヨークのサザビーズで、5390万ドル(72億円)という当時の最高額で競り落されています。

「ロサンゼルス…今日中に帰ってこられるかしら」
 ジュディは少し驚きました。
「泊まりになるかもね、それでもいいかしら」
 マリアはひとり浮き浮きとしています。
「まさこがいいなら…どうぞ」
 ジュディは言い出した手前、無下に止めるわけにもいかず、やむなくそう答えたのです、とさ。