蜂太郎日記

森昌子を聴きながら・・・

時代20、されど豊饒の日々


 阿久悠作詞、出門英作曲による「夕子の四季」は、ドラマチックな旋律はないものの、PPMの「パフ」を思い出させる情緒に溢れる作品である。一ヶ所だけインパクトある言葉が使われてはいるが、それもまた愛嬌で、特段の違和感ではない。

 平淡な楽曲であるからといって価値を貶められるいわれはないだろう。「越冬つばめ」は確かにそのドラマチックな展開にバラードを連想したし、「寒椿」には魂の震えを感じた。だがこの「夕子の四季」にはそうした劇的要素はないものの、歌われる世界は豊饒に満ちている。何でもない、さりげない日常にこそ豊饒はあるのだということを今日の日本が教えてくれる。夕子の日常だった四季は豊かな色彩に溢れていた。それは、平凡されど豊饒ということなのだ。

 平凡であるが故に言われなき屈辱を受けなければならないとするなら、それはいいがかりも同然で容認しがたく、夏目漱石のこの文章をもって対抗せざるを得ない。 

 あるものは人間交渉の際卒然として起こる際どき意味がなければ文学ではないと云ふ。あるものは平淡なる写生文に事件の発展がないのを見て文学ではないと云ふ。而して評家が従来の読書及び先輩の薫陶、若しくは自己の狭隘なる経験より出でたる一縷の細長き趣味中に含くまるゝものゝみを見て真の文学だ、真の文学だ云ふ。余はこれを不快に思ふ。(「作物の批評」漱石

 唸ってみるとか、吼えてみたとか、ドラマチックだとか、そしてまたまた唸って人の度肝を抜いてみたとか、そんな作品ばかりでは飽きがこよう。そればかりか、歌の本質から逸れはすまいかと、老婆心ながら苦言を呈してみたくなる。漱石と同じく、それがそんな傾向を不快に思う所以なのである。

 「マツミ、マタスミ」には少々戸惑ったが、それでも心豊かな楽曲には違いない。冬から始まって秋で終わる季節の並べ方もいい。終わってからでさえ次の年の豊穣を予想させる。まずは名曲と言っていいだろう。


独言:少々誉めすぎたか。しかし、アコースティックギターのみの伴奏ならこの豊饒感はさらに増すと思うのだが…。うーん、話は変わるが「こころ、それは先生」で躓いている。脇道に逸れてみた。永久に逸れ続けるのか…とも思う。素人はこれだから困る。(提供・蜂太郎本舗)


森昌子「夕子の四季」
http://youtu.be/xFZslQmSJ_A
ピーター・ポール&マリー「Puff the Magic Dragon」
http://youtu.be/0IDZEa7jSt8