時代7、森昌子と劇場(2)
- 正式名称:久保記念講堂
- 所 在 地:東京都千代田区霞が関 3-3-4
- 完 成:1958(s33)年10月
- 閉 館:1984(s59)年3月
- 収容人員:1000人強
- 設 計: (株)村田相互設計
- 跡 地:新霞が関ビル
参考、虎ノ門ホール
森昌子「ファーストコンサート」の場所は久保講堂だと思うが、「ポニーキャニオン」に虎ノ門ホールとあったので参考までに記す。この虎ノ門ホールのあった国立教育会館の建物は久保講堂の直ぐ近くにあったが、2005年に「霞が関R7プロジェクト」で解体され、その跡地は「霞が関コモンゲート」と名付けられた地区の一部になっている。
「霞が関R7プロジェクト概要」
このプロジェクトによってこの地域には2棟の高層ビル(東舘、西館)が建ち、外堀通り沿いの旧文部省庁舎はその一部が保存された。東舘には文部科学省、会計検査院、西館には金融庁や民間各社が入り、旧文部省庁舎には文部科学省や文化庁が入っている。また国立教育会館の建物のあった辺りはこのエリアの導入部で、民間商業施設の霞が関コモンゲートアネックス(地上2階建て)が建っている。
虎ノ門ホールは国立教育会館 の建物にあり、教育会館での歌謡曲のコンサートはどうなのかと思うが、何れかの教育機関の推薦により行われた言えば、それらしくはある。彼女のキャッチフレーズは「あなたのクラススメート」であったらしいから…。
1972年には勿論、両方とも存在したが、しかしここは本人の言葉の通り久保講堂だろう。久保講堂でのコンサートの履歴を調べた人の記録がウェブにあったが、それは1977 年以降のもので、それ以前については記されていなかった。1972年の森昌子「ファーストコンサート」は、この講堂でのコンサートとしては早い時期なのかもしれない。ステージと観客席が近いというここの造りがフォーク系の歌手にはやり易かったのだろう、フルバンドよりもこじんまりとしたバックのコンサートが多い。
久保講堂は霊友会の創立者久保角太郎の13回忌記念事業として建てられ、社会福祉法人社会事業会館に寄贈された。寄贈の理由は「宗教の本願は社会事業である」との久保角太郎の言葉にあるという。そして、社会事業会館は1970年、社会福祉法人全国社会福祉協議会と合併し、以降、この講堂は民間社会事業の様々な活動、催しの中心的拠点として活用された。閉館は「新ビル建設計画」が決定された1984年3月であり、現存しない。跡地には1987年3月竣工の新霞が関ビルが建っている。
この「ファーストコンサート」からは野口五郎の「悲しみの日曜日」を。この投げつけるよう歌唱は若さの証で、なかなかのものである。別の箇所で、ささらのリズムと音を「砂袋を打ちつけるような」と書いたことがあるが、実はささらはそんなに強い音ではない。砂粒を板塀に投げつけたときの音、と言ったほうが正しいかもしれない。この彼女の歌にそのささらの軽快なリズムを感じた。それ故の「なかなかのもの」なのである。そして次に「久保講堂だと思います」の言葉のある当時の芸能ニュースの映像を、共に60morimoriさんの動画でご覧下さい。
森昌子「悲しみの日曜日」(1972年)
http://www.youtube.com/watch?v=neDm9zuBlDM
芸能ニュース「森昌子と仲間たち」(1972年)
http://www.youtube.com/watch?v=pN4LqUZMb54